Monday, July 22, 2024

続報:台湾語の呼称をめぐる論争

 去年の9月、「台湾台語」という公式名称が定着する可能性は低いでしょう、と予測しました。

今のところ、この名称が普及した形跡はありません。

ただ、中華民国台湾政府の、この名称を普及させようとする意思に変わりはないようです。

先日、教育部が、(別に「台語検定」をたちあげてしまった人々がいたほど不人気だった)「閩南語検定」を「台湾台語検定」に改称すると発表しました。

また、文化部は、本土言語に関するシンポジウムの一環として、「台湾台語金門腔」をテーマとしたセッションを実施すると発表し、論争を呼んでいます。これについては、いずれまた別に取り上げるつもりです。

もう一度、「閩南語」のどこが問題点とされたのか、整理します。

まず、「学術的正確性」です。「閩南語」といった場合、台湾で形成された泉州語と漳州語の混合体(本文では便宜上台湾語と呼ぶことにします)だけではなく、それとは別言語とされている潮州語や、ひいてはそれらとお互いに全く通じない海南語までが含まれます。例えば、権威あるSILのEthnologueがこういう分類のしかたをしています。しかし、教育部の検定で試されるのは、台湾語の能力だけです。

2番目が、歴史性です。ある人々は、「閩南語」という名称が、台湾語を指すものとして世の中に初めて現れたのは、国民党の一党独裁統治時代だったとしています。国民党統治の正当性を認めない政治的立場の人たちは、それ以前から、つまり日本時代から使われていた「台語」を正式名称とすべきだと主張しています。(確か、日本時代に台湾語は「福建語」と呼ばれていたと思うのですが、それは棚に上げるようです。)

3番目が、文化的理由です。ある人々は、福建の略称である「閩」という言葉は、中原の人たちが蛇を祖先として拝む華南の人々を蔑んで使った蔑称なので、これをよしとしません。(「ホーロー語」という名称は、客家人が台湾語話者を蔑んで使ったものなので受け入れ難いとする立場と似ていますね。)

いずれにせよ、中国の一地方である福建との関係性を断ち切りたい、台湾島内で独自に発展した言語であるという点をことさら強調したい、という意識が働いているのは間違いないようです。そういう意識がなければ、台湾語は福建のアモイ・金門島や東南アジアで話されている「福建語」とほぼ問題なく意思疎通できるのですから、別言語として扱おうとはしないでしょう。

世界には、全く同じ言語でも、ナショナリズムの理由から、別言語と呼称したり、ひいては文字を変えてしまったりする例もありますね。例えばノルウェー語・スウェーデン語・デンマーク語・アイスランド語はそのままお互いに通じますが、ノルウェー人に「あなたはスウェーデン語を喋っている」と言ったら怒られるでしょう。クロアチア語は、言語的にはほぼ同じであるセルビア語と区別されたいがゆえに、文字をキリル文字からラテン文字に変えてしまいました。(SILは、ナショナリズムと関係なくても、ethnolinguistic identityが別である場合は、別言語と考えられることがある、と指摘してます。台湾に住んでいる泉州系・漳州系の台湾人が、例えばジャワ島やセブ島やペナン島の福建語話者たちと同じethniclinguistic identityを持っていないのは明らかでしょう。)

ところで、台湾語をどう呼ぶかについてみんなが同意できない理由の一つは、日本時代中期ぐらいまで、話者同士が同じ集団に属していると考えなかったからでしょう。有名な泉州系と漳州系の武装衝突の他に、泉州系内部でも、色々と殺し合いがありました。たとえおおむね通じるとしても、殺し合っている相手と自分が同じ言語を話していると普通考えたくないでしょう。日本当局が外部から、客家語を話す広東系と区別するために、泉州系・漳州系をひっくるめて「福建人」と呼んだのです。その後のインフラ開発による島内統合で、やがて人的交流も進み、いわゆる台湾語が形成されていったのです。

であれば、台湾全体を統合する言語として、単に「台語」と呼べばいいと思うのですが、そうも行きません。なぜなら、客家人を筆頭とするマイノリティ側から、「台語以外には『台湾』という呼称を冠するのに、台語だけにはそれをしないのは、台語だけを不当に超然たる地位にひきあげているのではにか;少数言語話者に対して不公平してなのではないか」という疑義を招きかねないからです。敢えてそれを行うものには、名誉なき「閩南ショーヴィニスト」の呼称が与えられてしまいます。

それをさておいても、台湾語運動家たちは認めたくないでしょうけれども、台湾華語がエスニシティを横断する台湾アイデンティティの媒介語としてすでに機能している現在、人工的な手段で台湾語にその役割を取って代わらせようとするのは、実現可能性が低いでしょう。普及を図りたいと考えるその言語をなんと呼ぶのかについてさえ、活動家たちの間で合意がないのでは、なおさらです。

Wednesday, September 6, 2023

Kind and friendly Taiwanese

People are discussing their experiences with friendly Taiwanese people. Here’s my contribution. One time I visited an indigenous village in Hualian for the harvest festival. I took a taxi from the train station. Once in the village, I was introduced to an old gentleman who spoke fluent Japanese. Unsurprisingly, he invited me to his house. Unsurprisingly, he showed me photos in Japanese military uniform, sang Japanese military songs and recited the Kyoiku Chokugo. The home altar showed the family was catholic. There was a Japanese bible and a hymn book in their native language but transcribed in katakana. I also saw a book of Bahai religion in Japanese. It was surprising how deep those Japanese missionaries of Bahai religion had penetrated!

After the festival I called a taxi to get back to the station. The same driver (Han Chinese) came. Instead of taking me to the station, she invited me to a dinner at her house. She said her mother spoke fluent Japanese and wanted somebody to speak Japanese with. She also insisted I taught some Japanese to her elementary school daughters. I politely declined because I had a train to catch and wanted to get back to Taipei. After a long period of futile persistence, she finally gave up. Instead, she stopped over at one of the most famous fried pork sparerib bento place and got me a dinner. She paid for it, of course. Plus, she probably gave me a discount on the taxi fare. I ate the bento in the train. Happy to know that Taiwan people haven’t changed a bit after all these years, reading all those posts.


DeepLによる無料翻訳:

フレンドリーな台湾人との経験を語り合う人々。私の投稿を紹介しよう。ある時、収穫祭で花蓮の先住民の村を訪れた。駅からタクシーに乗った。村に着くと、流暢な日本語を話す老紳士を紹介された。当然のことながら、彼は私を家に招いた。当然のことながら、彼は私に日本の軍服を着た写真を見せ、日本の軍歌を歌い、教育勅語を朗読した。家の祭壇を見ると、一家はカトリックだった。日本語の聖書と、カタカナで書かれた彼らの母語の賛美歌集があった。日本語のバハイ教の本も見た。バハイ教の日本人宣教師たちの浸透ぶりには驚かされた!

祭りの後、私は駅に戻るためにタクシーを呼んだ。同じ運転手(漢民族)が来た。彼女は私を駅まで送る代わりに、自分の家での夕食に招待してくれた。彼女の母親は流暢な日本語を話すので、一緒に日本語を話せる人が欲しいと言っていた。彼女はまた、私が小学生の娘たちに日本語を教えろと言い出した。私は電車の時間があり、台北に戻りたかったので、丁重にお断りした。無駄な粘りの末、彼女はついにあきらめた。代わりに、彼女は最も有名な豚のスペアリブ揚げ弁当の店に立ち寄り、夕食を買ってきてくれた。もちろん代金は彼女が払ってくれた。その上、タクシー代も安くしてくれたのだろう。弁当は電車の中で食べた。何年経っても台湾の人たちは少しも変わっていないことが分かって嬉しい。

Sunday, September 3, 2023

台湾語の呼称をめぐる論争

日本語という名前は良くないから、「やまと語」にしろ、「ジャパン語」にしろ、という人は多くないでしょう。でも台湾では、台湾語を何と呼ぶかについて、未解決の論争があります。

一般的に、一番良く聞かれるのは、「台語」です。運動家たちの間でも、これを支持する人が多いです。日本では、これを和訳して「台湾語」と言っているわけです。しかし、これを公式の呼称にするのには、主に客家人たちから根強い反対があります。人口70%を占める泉州・漳州系台湾人だけが、「台湾のことば」を独占することに異議があるからです。

国民党系がよく使うのは「閩南語」です。中国福建の南部地域との関連を強調できるからです。ただ、福建南部では他の言語もいろいろ話されているし、広東省の潮州語も同系統なので、正確性に欠ける、という意見があります。確かに、厦門語や台湾語だけを閩南語と呼べば、この地域の他の言語の使用者は不満でしょう。また「閩」というのは、北方漢民族から見たこの地域の住民に対する蔑称なので、使うべきではないという人もいます。

ちなみに東南アジアでは、イギリス人宣教師の伝統に従い、この言語を「福建語」と呼んでいますが、同じ福建でも閩東語(福州語)や閩北語は、全く通じない別の言語ですので、上記の問題が更に深刻なことになります。なお、台湾人の間では、東南アジアの「福建語」と、言語的に90%以上共通である自分たちのことばが同じである、という認識がそもそも薄いです。これは別のトピックですね。

民進党政権が妥協策としてよく使ったのが「台湾閩南語」という呼び方です。いろいろある閩南語のなかの、台湾で使われているもの、という意味で私もこれが妥当だと思いますが、台湾語運動家から根強い反対があります。言語というより政治的理由で、とにかく中国との関係を切りたいということでしょう。政府の「台湾閩南語検定」に対抗して、「台語検定」を立ち上げてしまった団体さえあります。(ちなみに、この人たちは、華語からの借用語を激しく糾弾するくせに、日本語からの借用語にはなぜかとても寛容です。)

最近では、「中国」語を避けるために「台湾華語」にしたし、「台湾客家語」もあるので、それに合わせて「台湾台語」にすることが正式に決まりました。しかし、この訳わからない呼称が定着する可能性は低いでしょう。

スペインでは、カタロニア語とかガリシア語とか伝統ある言語がいっぱいあるのに、王室がある場所で話されているということでカスティーリャ語だけを「スペイン語」と言っています。たった70%ぐらいの台湾人のエスニック言語であるこのことばが、「台湾語」と呼ばれる無茶を許容していく方向しかないのではないでしょうか?「批判的」言語学系のかたは不満でしょうが、多数派の言語がリングア・フランカとして機能し、少数言語話者がそれにシフトしていくことは世界でよくあることです。(敢えてそれに逆らったインドネシア語などもありますが、成功例は多くありません。)日本時代以前でも、台湾西部の平地では、異なる言語のコミュニティ同士では台湾語が使われていた形跡があります。平埔族の母語が台湾語になっている所以です。そういう意味で、台湾各地で泉州系と漳州系が混ざって成立したこの言語を、単に「台語」(英訳:Taiwanese Hokkien)とするのが得策なのではないでしょうか?

Saturday, August 5, 2023

フィリピンのマルチリンガル教育の優れた点と、その落とし穴

 フィリピンは、100以上の言語がありますが、「母語ベースのマルチリンガル教育(MTB-MLE)」という、世界でも先進的な初等教育ポリシーを持っています。これは優れているが、実は落とし穴もあります。

この政策の背景には、試しに英語やフィリピノ語ではなく各地の子どもたちが家で話している言語で教えてみたら、算数などの教科の成績が上がったというデータがあります。当たり前といえば当たり前の話です。それで、政府が20ぐらいの言語をピックアップして、教材を作り、小学校の最初の2,3年ぐらいをそれで教えられるようにしています。これによって、学習の効果が実際にアップしています。その後は、段階的にフィリピノ語へ、そして英語へとシフトしていきます。これは世界でも稀に見る進歩的な政策です。

あまり語られませんが、実は、この政策には落とし穴もあります。政府が選んだ20の言語以外の言語を母語とする子どもたちとその先生方は、これまでにも増して多くの言語を学ばなければならないことになり、負担が逆に増えてしまいます。また、それまで標準変種がなかった言語でも、教科書を作るために、どこかの方言をピックアップする必要があります。それ以外の方言を話す子どもと先生たちは、「こんなの俺たちの〇〇語じゃない;直接フィリピノ語(ひいては英語)を学んだほうがまだ楽だ」となってしまいます。

じゃあ、解決策は?全部の言語と方言で教材を作れば、といっても、それには滅法お金がかかります。というか、不可能ですよね。フィリピンは潤沢な教育予算で知られる国々の一つではありません。(ところで、今、ほぼ単一言語となっている国でも、過去には当局が高圧的手段でその主要言語を強制し、もしくは人々が主体的にその言語にシフトし、その他の言語たちが消滅に追い込まれたという歴史があります。)

そもそも、インフラや教員養成がちゃんとしていれば、媒介言語はあまり関係ないという考えもできます。例えばシンガポールは、家で何語を喋っているかに関係なく、全員が初等教育から英語のみで学ぶことが強制される、一見無茶とも思える制度です。それにもかかわらず、学力は世界一の部類に入る高さです。インフラと教員養成がちゃんとしているからです。(そういうのを整備するお金があった、ということでしょう。)

となると、言語環境主義のように、「多様性万々歳」なのか、もしくは、やはり日本や韓国みたいに、ほぼ全員にとって家で喋る言語と、学校で授業を教わる言語と、パソコンのOSと、本屋で暇つぶしに立ち読みする雑誌の言語が一致している(を一致させる)方が理想的なのか、という哲学問答になってきます。

言語復興などに積極的な先生方は、自分のグループの言語を持つことはポジティブなアイデンティティにつながるので、たとえ自分の方言と違っても、学校で教えることに決められた変種を受け入れるべきだ、と言っています。私は、それでは上から強制された国家語や地域共通語を教授媒介として受け入れるのと、規模が違うだけで本質的には同じじゃないか、と思います。私はこれを、「マトリョーシカ問題」と呼んでいます。

具体的に言うと、こういうことです:パナイ島のある村の小学校の先生が、「現地で喋っているヒリガイノン語とは違う、バコロド市で使っているヒリガイノン語で書かれた教科書を作ってやったから使ってくれ」、と言われれるのと、「国語はフィリピノ語なんだから、北はバタン諸島から南はミンダナオまで、全国で使われているのと同じフィリピノ語で書かれた教科書を使うように。問答無用!」と言われるのは、規模は違っても、本質的には同じことなんじゃないか。

グループ同士の違いのほうが個人間の違いより大きく、異なるグループ同士は利害が衝突している、という考えに基づいた政策の下では、結局、村の先生と子どもたちの負担が増えることになります。「君たちは〇〇語を話す〇〇人である」というのが、上から押し付けられるのには変わりません。また、本人や親が、「いや、将来的に有利だからフィリピノ語(英語)話者のコミュニティにシフトしていきたい」と思っても、簡単には認められないことになります。これは、世界中のマイノリティ言語復興運動が直面しうるジレンマであると言えるでしょう。(主要言語へのシフトがすでに完了し、マイノリティ言語が生活言語として復興する望みはもうないが、文化尊重の象徴的ジェスチャーとしてその教育が行われているところでは、この限りではありません。)

Friday, August 4, 2023

マレーシア人の言語

 マレーシア人の半分以上はマレー人、残りは中華系、インド人、欧州系などです。一般人の感覚としては、ムスリムであればマレー人と認識されるようです。マレー人は主に田舎に多く住んでいて、大都市では中華系が多数です。

マレー人以外で、家でマレー語を話している人はほぼいません。それで、都市によって、主要な言語が違います。例えば、クアラルンプールの街なかで一番良く聞くのは広東語、ペナンでは福建語(台湾語とほぼ同じ)、シブでは福州語(福建語と全然違う)、コタキナバルでは客家語、という具合です。

例えばクアラルンプールでは、自分の家庭で話す言語が英語であれ、潮州語であれ、外で知らない人と話す場合は広東語で、となります。ただ、福州語や海南語など、割りとマイナーな言語がメインの都市では、若い世代を中心に、華語(北京語)で話していることが多くなっています。華語は学校の授業の媒介語だし、話し言葉と書き言葉が一致しているからです。

このような言語の違いを、一般のマレー人はあまり認識していません。「中国人だから、中国語で話しているんだろう」ぐらいに思っている人が多いようです。

なお、インド系の人たちは、特に都市部では、お隣のシンガポールのように、家庭でも英語を話している人が多いようです。

こういうのは、実際に行って聞かないと、本当のところはわかりません。アンケート調査などをしても、社会的通念や、ナショナリズムが暗に求める建前を答えてくることが多々あります。

ここまで書いたのは、話し言葉のことです。読み書きになると、中華系の場合、中国語学校出身の場合は中国語で、マレー語学校(旧英語学校)出身の場合は英語で、ということになります。プラナカンという、古くから現地化した少数の華人は、上の世代はもっとマレー語を使っていたようですが、今は英語がメインです。中華系で、読み書きはマレー語でするし、マレー語新聞をとっている、というマレーシア人を私はまだ見たことがありません。

そんなわけで、華語も広東語も、ひいては英語もマレーシアの公用語ではありませんが、マレーシア人同士でこれらを使って話しているのは普通です。言語的には、マレー語のマレーシアとそれ以外のマレーシアが、同じ国土に共存しているような感じです。

Monday, March 6, 2023

When your language is an unfamiliar tongue

This article discusses the sense of alienation people feel when the standard version of the non-dominant language officially promoted and used in mainstream media differs from one's own dialect. The feeling must be all the stronger if you have fought hard and long for the promotion of your language. 

In order for a language to be promoted and institutionalized, one of the dialects has to be “arbitrarily” selected and codified. That dialect happens to be Tâi-oân Iu-sè-khiuⁿ at the moment and used to be Tōa-tiū-tiâⁿ-khiuⁿ during the Japanese period.

When this happens, there will always be some who will feel alienated because the variety being promoted differs from one’s own.
This problem is more acutely felt in places like Mindanao, where teachers are having to teach in a different dialect of their own language under the mother-tongue-based bilingual education program. This has a potential danger of accelerating language shift, because people may opt for the regional lingua franca or national language rather than having to deal with the so-called “own language” which differs from their own natural speech.

An inevitable consequence of applying monolingual assumptions to multilingual societies

This interesting article points out that Manobo languages in Mindanao are being lost to Cebuano, not to English or even Tagalog. It reports that people prefer to read the Bible in Cebuano and find the versions in their own languages "too difficult to read." It then challenges the age-old and mainly protestant claim that the Biblical messages are best conveyed in one's mother tongue.

Well, I would say such assumption derives from the linguistic nationalism arguments dating back to the Europe of Luther and Herder that needed to promote monolingualism. It fails to take into account the fact that Filipinos always code-mix and that one's primary language shifts over time and from domain to domain. That's why bible translations in a "pure" form of vernaculars are not so popular except in well-established ones like Tagalog, Cebuano and Ilocano. They sound "unnatural" with so many lengthy and unfamiliar words! They don't resemble the code-mixed form of the language they use in their everyday  lives!

Likewise, it's little wonder that some people prefer to read the Bible in English rather than in their own language. For me personally, too, colloquial translations like the Good News Bible (Today's English Translation) is far more readable than the predominant one in my language (New Interconfessional Version) which used formal register. Thanks to the GNB, my elementary-school-age daughters have access to the word of God. They will have to wait until at least after high school to have access to the formal register and unfamiliar kanjis in the Japanese bible.